Yukio Diary -金澤幸緒のブログ

タイタンキャピタル株式会社 金澤幸緒のブログ

チャリティーのお話 -NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公である実業家・渋沢栄一

旧渋沢邸「中の家」(銅像あり)外観

旧渋沢邸「中の家」(銅像あり)外観

金澤幸雄です。

NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公である実業家・渋沢栄一は、「日本資本主義の父」と呼ばれ、明治から昭和にかけて500社以上の企業設立に関わりました。

 

1873年に第一銀行(後に第一勧業銀行となり、現在はみずほ銀行になっています)の創設に関わったのをはじめ、その後、東京ガスサッポロビール、帝国ホテルなど約500社もの企業設立に携わり、日本における近代経済の礎を築いた渋沢栄一ですが、その91年の生涯で最も長い間務めた「肩書」は、そういった現代日本で知らない人はいないほどの名だたる大企業のものではありませんでした。

 

1872年に東京で設立された、困窮者、病者、孤児、老人、障害者などの保護施設として、現在の福祉事業の原点ともなっている東京養育院。この「東京養育院院長」という肩書こそ、渋沢栄一が約50年もの長きにわたり、生涯を通じて勤め上げたものだったのです。大蔵省を辞め、経済実業界を退いた後でも、この養育院の運営には最後まで関与し続けました。

 

19世紀末という時代は、明治維新のさなかでありながら社会体制崩壊や災害により多くの人々が貧困と飢餓に瀕していました。

そんな中、なぜ、渋沢栄一は東京養育院に情熱を注いだのでしょうか。

 

東京養育院は、江戸幕府の救貧基金「七分積金(しちぶつみきん)」を管理する営繕会議所に、当時の東京府知事であった元幕臣大久保一翁大久保忠寛東京府知事が貧困にあえぐ人々の救貧策として基金の捻出を願い出たことにより始まりました。

 

幕臣から官僚、そして実業家に転身していた当時の渋沢栄一は、自身の上役だったこの大久保府知事と縁があり、養育院の運営メンバーに招き入れられます。事務長を経て、1879年に初代院長を任されることになりました。

 

その後、渋沢栄一東京府の税金を運用して養育院の運営をしていましたが、大久保一翁が府知事を退任した後、思わぬ逆風にさらされます。

府議会で、当時の経済学者・田口卯吉が

 

「税金を使って、貧乏で働けない人を養育することは怠け者を作ることになり、税金で養うべきではない」

 

と演説し、それがもとで養育院の廃止論が巻き起こったのです。

渋沢栄一は懸命に存続を訴えましたが、税の支出が止められ、養育院は委任経営となりました。

 

そこで、渋沢栄一は養育院の運営費を調達するために、当時の社交場である鹿鳴館でバザーを開いたり、財界人から寄付を募るなど、存続のために力を尽くしたそうです。

こうした手法は、渋沢栄一の唱えた「公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させる」という合本主義の考えが生きています。

 

この東京養育院は現在も、東京都健康長寿医療センターと名前を変え、東京・板橋区で事業を行っており、来年2022年には創立150周年を迎えます。渋沢栄一の目指した福祉思想はこうして脈々と受け継がれています。

 

タイタン 金澤幸雄

 

『画像提供 深谷市』、『©深谷市